そして幾千の言の葉よりも
 


 頬を撫でていくそよ風が心地いい。うっすら汗をかいた肌にも寒さは感じない。まわりに満ちる、さわやかな緑と甘い花の香り。
 ……春なんだもの。 
 ようやく息の静まってきた体を広々とした緑の野原に横たえて、こうして目を閉じていても、まぶたの裏に空から照らす光のまぶしさを感じる。そして彼女に向けられているであろう泰衡の視線も……。
 泰衡の上衣が体をおおっているから、素裸を見られているわけではないのだけれど、その下には何も身につけていないと思えば、やはり少々気恥ずかしい。さっきまでさんざん見られて触れられているのだから、何を今さらと彼は思うだろうけど……。 
 これまで何度も夜を共にしてきたものの、こんな明るいところではもちろん初めてだった。強引な人と知ってはいても、まわりに誰もいないとはいえ昼日中、まさか隠すものもないこんな場所でとは思わなかった。
 でも彼に求められたら拒むなんて無理だ。口づけひとつで黙らされてしまう自分も自分、でも抱き寄せられて唇をふさがれれば、それだけで頭がふわっとして何も考えられなくなってしまうのだから、しかたない。
 それに彼と抱き合うのはずいぶんと久しぶりだった。彼が心から自分を求めてくれていることがようやくわかって、愛されていると実感できるのが本当にうれしくて、いつもより、もっと……感じてしまったかもしれない。すごくよかったと、望美は恥らいつつも認めた。
 ……目を開けてみると、やっぱり彼がこちらを見ていた。
 彼女の隣に肘をついて半身を起こし、黒い瞳で見下ろしている。かすかに口角を上げている表情は、まるでうんとおいしいものを堪能したあとのようにも見える。
 衣の下も自分の心の中も見通されているようで何だかいたたまれず、望美は彼の裸の胸に身を寄せた。体をくっつけてしまえば、少なくとも正面から眺め回されることだけはなくなる。小さな声で抗議した。
「そんなに見ないで……」
「なぜだ? 貴女があまりにも満ち足りた顔をしているのでな」
「もう……」
 自分の顔にも泰衡の顔に表れているのと同じものが表れているのだと知って、うれしいような、困ったような気分になる。彼の胸に顔を埋めて、くぐもった声でつぶやいた。
「……泰衡さん、好き」
 答はなかったが、かまわず続けた。
「好き、大好き」
 そう言ってさらに身をすりよせる。無言で彼女の髪を撫で始めた泰衡の手の心地よさに、ねだるように口にしてみた。
「泰衡さんにも言って欲しいな……」
 む、と唸り声。手が止まった。
「……さっき言ったが」
 それは、確かにそうだけど。恋人の甘い言葉は何度でも聞きたいのが女心というもの。
「もう一回言って?」
「そう安易に口に出すものではなかろう」
 そっけない返答に望美はふくれた。彼女は何度も言ってるのに。口に出したって減るわけじゃないのに。言ってくれたらどれほど望美がうれしいか、気づいてないわけないのに。
「泰衡さんのけち」 
 そう言って、すねたように背を向ける。
「けちとは……そういう問題ではないと思うが……」
 背中越しに泰衡のとまどったため息が聞こえたが、望美はかまわずにいた。泰衡は、ちゅ、と音をたてて望美のむきだしの肩に口づけた。春の日差しに輝く白い肌は白磁のようだ。だが冷たい陶器になど比べようもなくあたたかく、やわらかい……。その感触に心を奪われながらも泰衡は告げた。
「……もう少し落ち着いたら、貴女を連れてしばらく出かけたいのだが。北へ」
 望美が首だけ回し、きょとんと問いかける。
「北?」 
「ああ、貴女に見せたい。豊かで広いこの国を」
 言いながら、今度はうなじに唇を触れさせる。望美が小さく身じろぎした。
「懐深い森や緑の谷、強く賢い馬たちが駆け回る高原を越えて行けば、不思議なほど蒼い湖が姿を現す。旅の途中で稗貫(ひえぬき)や鹿角(かづの)の金山に立ち寄るのもいい。つとめる者たちは皆、貴女を歓迎するだろう。津軽の外が浜や十三湊(とさみなと)の港町のにぎわい、彼方にそびえる雄大な岩木山の眺め……。半島の先まで行けば、海峡を挟んで渡島(おしま)(北海道)もすぐそこだ」
 早くも機嫌を直したのか、うん、行きたいと望美がはずんだ声を出す。平泉ではいつも誰かがそばにいて、好きな時に手を出すこともできないしなと思いながら、泰衡は望美の胸に指を伸ばした。やわらかなふくらみをやんわりと揉む。
「……あ……」
 望美の口から溶けるような息がこぼれた。背後から望美の方へと首をかたむけた泰衡の唇が、上を仰いだ望美の唇に重なっていく。重みをかけられるまま、望美は泰衡の下にゆっくりと横たわった。しなやかに筋肉の張った肩に手を回せば、男らしいその厚みに胸が熱くなる。その間も口づけはとぎれることはない。
 望美は彼の口づけが好きだった。心も体も絡め取っていくような口づけが。彼の唇は彼の言葉より、時にずっと率直で雄弁だ。たまらないほど焦らされたりして、ずいぶんいじわるな時もあるけれど―――。
「ん……」
 入り込んできた舌に舌を触れさせてみる。応え方を教えたのは彼だ。今では望美も多少は自分から戯れを仕掛ける方法を覚えたとは思うものの、泰衡から見ればまだまだ物足りないに違いない。それでも望美の努力を喜んでくれているみたいなのがうれしい……。泰衡の手が彼女の曲線に沿ってすべり下り、そのしぐさはすでに間違えようのない熱を孕んでいた。
「また……?」
 甘える声で尋ねてみたが、肌のそこここに唇を落とし始めた泰衡から返る答はない。でも言葉よりも何よりも、彼の行動がはっきりと教えてくれる。彼女とともにもう一度、甘美な情熱を極めたいのだと……。
 心のままに彼女を求めてくれる彼がうれしい。いつもわかりにくくて素直じゃない人だけど、こういう時はありのままの彼を感じ取れる。だから望美も思いきり彼に応えたい。彼の熱を分けてほしいし、望美の想いも分けてあげたい……。望美は泰衡の背をまさぐるように撫でた。さらりとした泰衡の長い黒髪が指に触れている。
「泰衡さん……好き……愛してるの」
 堰止めるものをなくした望美の気持ちは自然に唇からこぼれ出てしまうけれど、彼は違うようだ。でもこうしていっぱい愛してくれるなら、言葉はいつかまた、あとででもいい……。だが目を閉じ、もたらされる感覚に酔い始めた望美の耳に届いたのは低いささやき。
「……ああ。俺も愛している。俺は……誰よりも貴女が愛しい」
 ぱっと目を開けると、眉を寄せ、望美から視線を反らした泰衡の顔があった。泰衡は少し早口で言った。
「気が済んだか? 先ほども言ったことだ、あらためて口にするまでもないとは思うが」
 不承不承といった口ぶり、でもそれが彼の照れなのだと望美にはわかる。愛していると言ってくれたことも、何のかんの言いながら望美の願いを聞いてくれたことも無性にうれしくて、はじけるように叫んだ。
「えーっ、もっと言って! ねっ、ねっ!」
 泰衡はこちらを向くと短くうなずいた。
「機会があったら考えよう。だが……」
 それ以上を黙らせるように望美の唇を指先で撫でて、ちらりと目元を微笑ませる。そこに含まれた男の艶に望美は瞬間見とれた。
「今はもう、十分だろう? さあ、聞かせてくれ。今度は言葉ではなく、貴女の甘い吐息を……」
「泰衡さん……」
 泰衡が彼女を強く抱きしめ、唇を寄せてくる。望美は幸せそうな笑みを浮かべるとふたたび瞳を閉じ、体のすべてに火を灯していく口づけを胸ときめかせて受け止めた。

 ―――彼女にも今はもう、言うべきことは何もなかった。






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