ぬばたまの夜に抱かれて 1
 





 銀はいかにその言動が控えめであっても、目立つ存在だった。
 主の泰衡に常に影のように付き従う姿の見目麗しさ。山野をさまよっているところを拾われたという謎めいた出自、過去を何も思い出せないという神秘性。文にも武に秀でているのはすでに伽羅御所中に知れ渡っている。
 そんな銀に向けられる男たちのうろんな視線や嫉視はさおき、彼は今では御所の女たちの格好の噂話の種だ。顔かたちの品定めやら身の上についての想像やら、三人寄れば彼の話題が出ると言っても過言ではない。
 だから、そう時も経たぬうちに女として彼に手を出してもみたくなる者が出ても、それは自然な流れだったのかもしれなかった。
「……もし」
 夕刻の伽羅御所。薄く闇の降りてきた廂を歩いていた銀の耳に聞こえた女の声。振り返れば、室と庇を隔てる御簾の脇から差し出された扇がひらひらと彼を招いている。
「銀様、お願い申します。お手を貸してはいただけませぬか」
「いかがされましたか」 
 御簾のとばにひざまずき、銀は問う。
「小鳥が……」
 室のうちに招じ入れられた彼が見たのは、隅の二階棚の上に留まり、落ち着かなげに小首をかしげている小鳥の姿だった。女房が近寄ると小さく啼き声を発し、すばやく几帳の上に逃れてしまう。
「餌をやろうとした時にうっかり……。建物の外に逃げ出してしまったら、もうどうしようもありませぬ。どうか」
 彼の腕にすがり、美しい瞳に涙を浮かべんばかりに訴える。逃げた小鳥を捕まえた経験などなかったが、銀はうなずいた。小鳥にゆっくりと近づきながら、彼は手を差し延べた。
「さあ、安心して。私はあなたを傷つけたりはしないのだから……」
 小鳥はまるで彼の声に聞き入っているかのように動きを止めた。
「愛らしいあなたを籠に閉じ込めるのは心苦しいけれど、外を気ままに飛び回っては、気まぐれな猫や大鳥に襲われてしまうかもしれない。さあ、おいで―――」
 しなやかな指を小鳥の目の前に出すと、鳥はちょっと考えるように小首をかしげたあと、ちょこんと乗り移った。やわらかくささやき続けながら、そのまま籠の中まで静かに手を持っていく。止まり木の上に小鳥を置いて扉を閉めると、元の居場所に戻ったことにそのとき初めて気づいたかのように、小鳥はさえずりながらかごの中を飛び回り始めた。
 一連の動作を魅入られるように見守っていた女房がほうっと息をついた。
「本当にありがとうございました。この礼はいかようにしたら」
「いいえ。お役に立てて何よりです。お気になさらず」
 微笑んで御簾の外に出ようとした彼に、女房がするりと腕を回して抱きついた。銀が驚いて叫ぶ。
「何を……」
「不躾をお許しになって。先日あなた様をお見かけしてからずっと胸狂おしく、焦がれる想いに夜も眠れませぬ。お送りした文のお返事は丁重な断りばかり」
 それは本当だった。銀は寄せられる想い文のすべてにはやんわりと丁寧に、しかし断りを書き記していた。銀の広い背に頬を寄せ、女房は重ねて訴えた。
「聞けばあなた様は昔のことを何一つ覚えてはおられぬそうな。ならばこの平泉にて、新たな思い出をお作りになるのはいかが……? あなた様のその腕に、今度はどうか私を捕らえては下さいませぬか……」
 甘くささやく声は、衣の下の肉体もきっと同じく甘いのだろうと想像させる。しかし銀は息をつき、そっと女房の腕を引きはがした。向き直った彼の端麗な顔には、女をどきりとさせずにはおかない愁いの表情があった。
「あなた様は何とおやさしい方なのでしょう。この私を哀れみ、共に新たな思い出を作ろうとおっしゃってくださる。でもお許しください、美しい方。私にはそれはできぬのです」
 伏せた睫毛が白皙の頬に長く翳を落とす様に、拒む言葉を耳にしつつも思わず女房は見惚れてしまう。
「私は何処の生まれとも知れぬ身。あなた様とこうしてお言葉を交わすことすら許されぬ卑賤の者かも知れません。そして今の私は、泰衡様の僕という立場以外には何もない……。このような私は、主の許しなきところでどなたの御手も取ることはかなわぬのです」
「銀様」
「ああ、そのような顔をなさらないで……。あなた様のお望みにお応えできぬばかりか、こうして悲しませてしまう罪を重ねてしまう私をどうかお許しください。けれどあなた様にとって私などはひとすじの風に過ぎぬ存在。過ぐればすぐに忘れましょう。では……」
「銀様!」
 追いすがる女房に背を向け、彼は音もなく御簾の向こうに消えたのだった。








「で、銀はそのまま去ったというのか」
「はあ」
「俺の許しがないからと」
「左様でございます」
「……下らん」
 泰衡がつぶやく。
「は? 何かおっしゃいましたか」
「……いや」
 このような話、本来なら奥州藤原氏の総領たる泰衡まで上がるようなものではない。が、あのとき隣室の几帳の影から一部始終を聞いていた女房がいた。そして彼女の夫はたまたま泰衡の郎党だった。妻からこの顛末を聞いた彼は、新参者のくせに必要以上に主の寵を受けている青年の行動を、取るに足らないことではございますがと前置きしつつも、ここぞとばかり泰衡に報告しにきたのだった。
「これは他の者も知っている話なのか」
「い、いえ、泰衡様だけに申し上げたものでございまして。すげなくされた女房殿も、不首尾を自ら吹聴するつもりはない様子で」
「……そうか。わかった、もう行け」
 むっすりと眉をひそめつつ泰衡は手を振った。てっきりこの話に主が興じるものと思っていた郎党は、不機嫌な体(てい)の泰衡に冷や汗をかきながら逃げるように前を下がった。この件はこれ以上触れぬが賢明らしい。妻にもきつく口止めをしようと思いつつ……。
「ふん、下らん」
 去る郎党をもう一顧だにせず、彼は再度口にした。下らないと思う一方で、妙に引っかかるものがある。それが彼を不機嫌にしていた。
 ……少し前に拾い上げた男。使ってみれば予想外に有能で、しかも泰衡に極めて忠実だ。思わぬ拾い物をしたというべきか。
 銀が従順な下僕であることに泰衡は満足している。とは言えそのすべてを縛るつもりはない。と言うか興味がない。銀がどこで何をしようと、務めに障りがない限り泰衡が関知するところではないのだ。あの面体なら寄ってくる女には事欠かないはず、好きにすればいいものを……。何事も泰衡の命に拠ろうとする銀の処し方を考えれば、今回の行動もあながち不思議ではないが……。
 しかし、あの曇りない瞳が欲望を宿すことは本当にないのだろうか? 度を過ぎるほどの生真面目さは取り繕ったものとも思えないが、出自も経歴もまったく不明であってみれば、どこまでが真の姿かは泰衡にとっても謎だった。
「……ふむ」
 何かを思いついた様子で文をしたためた始めた泰衡の顔には楽しげな、しかし決して人が善いとはいえない類(たぐい)の笑みが浮かんでいた。







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